
Q:工場を見学させて頂くと、コンベアの組み立てや機械に配線をする作業もありましたが、社長ご自身は、工業高校のご出身でしたか?
いえいえ、出身は、兵庫県神戸市の商業高校を出ました。高校時代はやり投げをやっていまして、それで大学からスカウトされましたけど、勉強はほどほどでした。(笑)
Q:H15年に創業されH19年に株式会社を設立されましたが、その前はどんなお仕事をしていらっしゃったのでしょうか?
こんな私も卒業して入社したのは、働きながら陸上ができる製薬会社でしたが、廃部になったり、移動になったりで仕事も色々変わりましたが、ある時父の紹介でベルトコンベヤーのベルトを修理する会社に入社しました。従業員4名ほどの小さな会社で、そのころ神戸は、六甲山を切り出してどんどん埋め立てをしていたんですよ。
海に向かってベルトコンベアがズーっと土を運ぶんです。そのベルトの厚みがあって中にワイヤーが入ってるんですが、長さは、4,000mもあったんですね。
それに土砂が落ちてくるでしょ、岩のとんがったところがあって穴が空いたりするんですが、その穴を修理する仕事をしていました。
一人前にできるようになって、親方には独立しろ、と言われていましたが、ある時に、知人の紹介もあって形だけで受けた大手自動搬送機の会社の面接で、「私は独立する気満々ですから今更サラリーマンには、なる気ないですよ」と言ったら「お前面白いなぁ、1年でいいからうちに来ないか」と言われて入ったら、1年でやめられなくなりました。面白くてやめるタイミングが掴めなくて、結局その会社に10年位いましたね。
ただ、そのおかげで電気配線や電気制御を勉強して、仕事として一人前にできるようになりました。
パソコンができて、プログラミング言語がわかるようになると、ソフトウェアも勉強したくなり、異動願いなども出して、自分のキャリアを考えるようになりました。
修理とかメンテナンスもやっていたんですが、技術がだんだん高度になっていくと、配属された支店では代わりがいない状況になり、そうなると、自分のキャリアプランがあっても、支店の事情もあり思うようにいかないことが多くなりました。
―そこで、ご自身のキャリアを「起業する」という形にされたわけですね!
そうです。起業して最初はパソコンのソフトウェアを作っていました。病院の基幹システムを作ったりしたのですが、お金になるのにすごく時間がかかり、持ってたお金がすべてなくなりました。そこで何ができるかというと、物流機械の工事とかメンテナンスだったんですね。元いた会社でのキャリアが活きた瞬間でした。
―この多治見市でご縁があって経営をされておられるのですが、この地で経営されてみてどうですか?
リーマンショックがあってその時は、頼る人がなくて、難しさを感じましたが、今は、特に営業をしなくてもお客様がお客様を呼んでくれるんですよ。真面目にやっていると「松岡技研は仕事が丁寧だよ」って。
―今現在はどうですか?
今は、そういうわけで今のお客様から頂いているお仕事を精一杯やらせて頂いている状態で、新規のお客様に対応できないのが悩みですね。
―これからはどんな会社にしていかれたいと思われますか?
今の仕事をしつつ、機械の設計製作も同じように伸ばしていきたいと思っています。
あと、やりたいという人たちの芽はつぶしたくないんですよ。
これから技術や部品は変わっていくじゃないですか?
そういう世界の中で、今の若い子たちがあんなことしたい、こんなことしたいというのを潰したくないと思っています。何かを見つけて自分でできるようなら、そういう子を応援したいんですね。そういうムードだけは作ってあげたいな、と思っています。
―この仕事をやっていてよかったな、と思うのはどんなときでしたか?
機械が動いた瞬間ですね。
そして最後の最後にお客様が「ありがとう」と言ってくれた時ですね。
前の会社の同僚に会った時に、「辞めなければ今は役職につけていたのに・・・」と言われたこともありますが、私は1mmも後悔はないですよ。
―(ラボ)今までやってこられたことが、全てつながっていて、
できなかったことが、バネになっていますね。
松岡技研さんは、やりたいと思う社員にやりたいことをやらせてくれる会社です。
来年度には、高卒求人を出したいと思っておられますので、ぜひ、就職を希望している高校生の皆さん、松岡技研の会社を見に来てください!